1 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/04/26(土) 09:53:43 ID:XsNLZn5k0
君が爺さん、婆さんから聞いた、リアルな実体験話を
皆に聞かせるためのスレッド。
歴史上の有名人との接触
歴史上重要な出来事に関わった話
先祖が英雄で、身内しか聞けない話
その他、どうでもいいがおもしろい話2 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/04/26(土) 15:03:26 ID:JOYVzjNIO
憲兵がっぺムカつくて言う話しか知らん。3 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/04/26(土) 15:12:45 ID:n5E9cwAe0
逆に、左翼の男が逃亡してて、警官が一本背負いでつかまえたって
はなしきいたことがあるよ
4 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/04/26(土) 15:37:20 ID:fEPNK7X3O
ひいじいさん 薩摩の人間にみんなで石投げたって言ってたよ19 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/04/30(水) 17:59:30 ID:sotQumfFO
村で殺人あっても恥だから警察沙汰にはしなかったらしい
22 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/01(木) 21:43:18 ID:zZdFc2cRO
うちのばーちゃん今86歳だけど戦時中畑仕事していたら、
味方の飛行機が飛んで来たな~と思っていたら空襲警報がなったと同時に敵の爆撃機が頭上すれすれに飛んで来て、慌てて体一つが入るのがやっとの用水路に逃げたらしい、空襲警報は鳴るのが遅いし役立たずって言うてました。26 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/02(金) 07:48:05 ID:TgEUfn5lO
大正4年生まれの死んだばぁちゃんが言ってたけど
昔は日光に遠足に行くと、いろは坂は自力で歩いて登ったんだそうだ
でもその景色は格別だったって36 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/05/11(日) 01:24:33 ID:FoqRT2bzO
爺さんがマッカーサーに直訴した。
爺さんの友人はケネディの親族だか誰かを戦時中助けて大統領就任式に行ったらしい。
マッカーサーは案外良い人だったと言ってる。49 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/05/23(金) 11:33:16 ID:kbOcQeKBO
山形の婆ちゃんと銀座に行ったら
「久しぶりだべ」というので「前はいつ来たの?」と聞いたら
「前来た時はまだ進駐軍がいた」と言ってた。それは随分久しぶりだなと思った。50 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/05/24(土) 15:45:29 ID:89MTclzzO
太平洋戦争で海軍の整備兵として海に出ていた祖父(88)が
唯一してくれた戦争話
ある日甲板に出て海を見ていたら、自船に向かってくる魚雷発見
誰かに伝える間もなく「死ぬ!」と思った瞬間、
魚雷は船の下を通り抜けて遥か彼方へ消えて行ったそうだ
普段すごく気難しい祖父が「冗談のごたる(ような)話やろ」と笑ってたから実話だと思う
あと余談として
自分は嘉吉の乱で有名な家の直系(に近い傍流?)らしいが、どこまで本当なんだかw51 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/25(日) 00:03:29 ID:vmbiAFdX0
おれの爺さんの親父が明治天皇の詩の先生だったらしい59 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/28(水) 05:15:21 ID:mxYZjFHD0
うちの死んだじいちゃんは大酒のみで近所でも有名だった
田畑と酒を交換したという逸話があるぐらい
そんなじいちゃんが戦争で満州へ行った時の事
じいちゃんは仕事しないで酒ばっかり飲んでたらしい
銃弾の降りしきる中でもニコニコしながら酒飲んでたらしい
んで、日本が負けた時、中国人が日本兵に復讐を始めたらしいんだが
戦争中日本兵にひどいことされた彼らの恨みは凄まじく、日本人はかなりむごい目にあったそうな
そんな中じいちゃんだけは
「お前は戦争中も優しかった、私達に何もしなかった」って見逃されたんだと
ただ酒飲んでただけだろ~wって感じだが、ここで死んでたら俺もいないんだし
大酒のみに感謝だな
この話をしてくれたのは、当時日本語の通訳をしていた中国人のばあちゃんなんだが
婚約者がいたにもかかわらず日本兵のじいちゃんと恋に落ちて父ちゃんを産んだ
やっぱり差別とかいろいろ大変だったらしいが二人のラブラブっぷりは
孫から見てもすさまじかった
ちなみにじいちゃんは死ぬ前日まで毎日一升ぐらい飲んでた
倒れて、病院で「酒が飲みたいな~」って言葉を遺してぽっくり死んだ67 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/30(金) 23:32:37 ID:7h7aHTK10
俺の爺さんでも婆さんでもないが、学校の年取った先生から聞いた話。
昭和二十年の終戦の日、
先生たちの集落の人は、人づてに負けたことを聞いた(山に住んでてラジオ聞けず)。
やけになった先生たちは「米軍に殺される前に腹いっぱい食うぞ!」と決めて、
近所のきれいな川に大量の山椒をぶちまけた。
川面には大量の魚が浮いてきたので残らず獲り、とっておきの酒も引っ張り出して、
これが最後のつもりで飲めや歌えの大宴会を行なった。
その後、思ってたよりはるかに穏健な支配体制が敷かれたのはよかったんだが、
近所の川では丸一年アユもアメゴもほとんど獲れなくなり、
酒も保存食料も残らず飲み食いしたんで大いに困ったそうだ。
日本駐留前の、人々のアメリカへの恐れがわかる話だな。72 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/31(土) 17:51:18 ID:fvN8z0/l0
中国で戦ってきた祖父が、「チェコ機銃」の優秀さをよく称えてたな。
中国兵からの分捕り品だけど。
「日本のやつよりずっと丈夫で、機能もいいんだ。鉄がいいんだろうな」と言っていた。75 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/01(日) 20:00:14 ID:LwbScPVc0
>>72
ZB26(チェコ・ブルーノ1926年式)軽機関銃な。
壊れにくく命中精度が高く価格は安く、大勢の日本兵がこれにやられた。
日本軍もチェコから買えばいいのに国産にこだわって、
火力で劣る上に、戦場では故障続出でまったく使い物にならず。
今の自衛隊も、特に機銃に関しては70年前と全く同じ状況で、
馬鹿高いのに粗悪ですぐ故障する国産品に、自衛隊員は戦々恐々。
守屋みたいのが兵器を選んでバックリベート貰ってるんだから、
当然そうなるけどね。
76 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[123] 投稿日:2008/06/05(木) 03:01:26 ID:RRVXsuHv0
そんなに国産銃ってだめなの?
79 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/05(木) 17:01:52 ID:Qs9uIhBh0
>>76陸自で30年以上も主力を務めた国産の62式機関銃が隊員泣かせの欠陥品として有名だったなあ。
故障が頻発したのに、抜本的な改善が最後までされなかったのは、
旧軍からの伝統なのか、自衛隊が戦闘を全く想定していないからなのか、
調達本部の役人がワイロ貰ってたからなのか、俺にもよく判らない。
今ではベルギーFN社のベストセラー機銃「MINIMI」のコピーに切り替えているが
例によってライセンス生産で、本物のMINIMIと違って、相変わらず故障が多い。
自動車や家電品と違って競争がないし、自衛隊員が「国産のMINIMIは欠陥品だ」と
マスコミに言ってしまうと、軍事機密を暴露した罪で軍法会議だから、改善される見込なし。
戦場で1丁の機関銃が故障したら、一個連隊が危機に瀕する事もよくあるんだが、
そういう危機感は日本の防衛省には全くない。そのへんの体質は旧軍とそっくり。94 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/08(日) 23:35:38 ID:uABkzbMX0
俺のじーさんは戦争時、満州(かなりの内地の方)に行ってたんだが、
とにかく食べ物が無くて困ってたと言ってた。
仕方が無いので数人で犬を食ったらしいが、上官に見つかり
体罰と一週間ほどの牢屋監禁だとよ。
かなり、厳しかったらしい。95 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/09(月) 00:18:34 ID:/rr11WOH0
明治44年生まれの婆ちゃんの話
満州からの引き揚げのとき、ソ連兵に後ろから銃を突きつけられて脅され、
結婚式のときの着物を渡したら、両手でたぐるように巻き込んで持って行かれたらしい。
実家は酒屋でそこそこ裕福だったから、上等な着物だったのではないかと思われる。97 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/10(火) 10:51:46 ID:TdI8Zmdh0
爺ちゃんから聞いた話。小中学校に配属将校がいて生活指導や教練やるらしい。
基本的に予備役の年寄り将校が来てたから、教練といっても大した事もなかった。
でも太平洋戦争が始まると現役バリバリの若い将校が赴任して来て、
「気合が足らん!」「なんだそのへっぴり腰は!」とか言って、
金属製の指揮棒でぶん殴られるから、もう死ぬかと思った。
指揮棒で殴られて意識を失う同級生が続出し、教練の時間はただ恐怖だけだった。
配属将校に酷い目にあった同級生のかなり多くが、戦後に共産主義に走ったのは、
気持は分かる、って言ってた。
98 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/10(火) 11:01:57 ID:8gyLU2zn0
祖父ではないが知り合いの社長さんの話
戦争当時15~6歳だったらしいんだが、さとうきび畑に仲間4人で
隠れてるところを米兵に見つかって捕まったらしい。
でもその米兵がトイレかどこかに行っている隙に、そいつの拳銃を取って
自分達の弁当箱の中に隠したんだって。もちろんそれに気付いた米兵は
「俺の拳銃をとこにやった!?」って怒り狂ったらしいが
みんな怯えながらもシラを切り通した。
それでホロ付きのトラックの荷台に乗せられて連行されることになったんだが
その荷台にアメリカ製のタバコが山ほど積まれていたらしく、興奮した4人は
そのタバコを荷台からどんどん道に投げ落としていって、最後は自分達も走っているトラックの荷台から
飛び降りて、点々と落ちているタバコを拾いながら帰ったんだって
この社長さんはいつもいろんな体験談を話してくれるけど豪快さが半端ない104 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/10(火) 20:29:32 ID:9FCcmiotO
4年前に86で亡くなったウチの祖母。
戦争が激しくなる前は喫茶店に行くのが好きだった。何故か防空壕に入ると「ああ、またレモンをいれた紅茶と、トーストにバターとジャム両方塗ったのが食べたいな…」と毎回のように思っていたそうだ。
現在と余り感覚変わらないかも。105 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[123] 投稿日:2008/06/10(火) 22:32:06 ID:PazKWA8H0
士族だったひいじいちゃんは手裏剣が上手で年取っても庭に来るスズメや
鳩を仕留めては家族に怒られていたらしい。手裏剣の下手な侍は修行に
出たときにひもじい思いをするってよく話していたらしい。124 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/12(木) 20:06:09 ID:02UxDkGGO
タイムスリップして若い頃の祖父母に会ってみたい
俺はあなたの孫ですって言っても信じてもらえないだろうけど127 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[123] 投稿日:2008/06/12(木) 23:21:50 ID:ISlZJNIA0
明治の頃は女性も時々道で「立ちしょん」したって昔ひいばあちゃんが言ってた。
どうやってやったんだろう。でも明治になって外人が来て確か政府は切り鼻と
女性の路上放尿をやめるように通達したとかって話しがあるから本当だったんだろうけど148 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/23(月) 01:03:00 ID:LQx6tOoiO
戦争の話しも。空襲警報を聞いて防空壕に逃げたけど鮨詰め状態で押しつぶされて亡くなる人も居た。凄い音と揺れで防空壕が潰れた所もあって中に居た人が土砂に埋まった。あの音と光景は目に焼き付いて離れないらしい。鉄作ってるから狙われたみたい149 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/23(月) 12:58:25 ID:roEqZzSj0
爺ちゃん曰く、空襲の際に防空壕に入っていたら安全でもなくて、
焼夷弾で大火災が起きると、壕の中で蒸し焼きになってしまうから
防空壕を脱出する判断が難しかった、とのこと。
早く出過ぎて機銃掃射を受けて死んだり、逃げ遅れて防空壕の中で
蒸し焼きになって死んだ人も多かったって(直接の死因は酸欠だろうね)。
壕で蒸し焼きになった遺骸は、そのままの形で出てくるので、
まるで仏様みたいで、皆で読経しながら運び出したと言ってた。151 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/06/25(水) 14:53:16 ID:wBoI9xxl0
80才のうちのばあちゃんが第二次世界大戦中に
吉祥寺の在郷軍人(陸軍中将)さんの家で奉公してたときの話。
空襲にそなえ、隣の組が消火訓練をやりだした。
奥さんは「隣組が始めたのだからうちの組もやらないと」と中将さんに言ったが
中将さんは「そんなことはやらなくていい」と取り合わなかったそうだ。
軍人としての自覚があるから決して口にはしなかったけどアメリカとの戦力差を知ってて
そんな小さな努力は無駄なことだとわかっていたっぽい。
そのことに奥さんが怒って実家に帰ってしまい、そこの娘さんとばあちゃんは
一大事と大変オロオロしたそうだ。奥さんすぐに戻ってきたけど。
圧倒的戦力差が分かってた中将さんはどんな気持で日本をみてたんだろうと考えると
少し切なくなる…152 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/26(木) 00:19:50 ID:qKLfm4fO0
戦前の軍隊のいじめは酷かったらしい。それでいじめられていた新兵は
実際の戦闘が始まるのを楽しみにしてたんだって。
「弾は前からばっか来るわけじゃねぇ」って。 おじいちゃんのはなし
174 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/06/27(金) 23:25:09 ID:5VUwVDbu0
母方の爺さんは戦時中の最後に徴兵された人の中の一人で満州に行ったそうだ
で、ろくに戦闘も起こらぬまま即武装解除でシベリアへ強制連行、あまりに過酷だったらしくカマキリとか食ってたらしい
その時のロシア兵の馬鹿さ加減を笑ってたな、時計を水洗いしたとか
父方の爺さんは成田空港某闘争の時に左翼とか絡まずにただ百姓という身分で300人くらい纏め上げて県庁に直訴しにいった
百姓軍団が耕運機で県庁まで直訴しにいったもんでそりゃまぁ凄かったらしい、仲間が興奮しすぎて竹やりで県庁のガラスぶっ壊したりしたらしいし
その後国会に証人として呼ばれて、その時の国務大臣徴発して一触即発になったとか
親父の話によればその頃は殺気の篭った目をした右翼が家の周りに複数いたとか言ってたな
爺さんもサラシ巻くくらいの覚悟だったらしいし、とにかくその頃の百姓の気迫は凄かったらしい
そういやハマコーとも知り合いだとか言ってたな
でもその後の三里塚闘争は結局左翼主導になっちゃったからなぁ・・・215 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/06(日) 09:19:46 ID:VSQeuws90
俺は33歳だが、小学生の時怖い祖父ちゃんに聞いた話。
俺の祖父ちゃんは大正13年生まれで戦争の時は大陸に行ってた。
どこの部隊に所属していたとかは知らないが、一等兵だった。
中国の部隊と戦闘して「首の後ろを弾丸がかすり、跡が残っている」と
俺に見せた。確かに筋の様に残っていた。
また、子供心に衝撃だったのは「言う事聞かない中国人をブチ殺した。」
祖父ちゃんが直接手を下したのか、それとも見た話なのかは解らない。
ただ、「中国兵」でなく「中国人」と確かに言った。民間人か?
でもまあ祖父ちゃんが生きて帰ってきたから、母ちゃんも生まれ俺も生まれた。
その祖父ちゃんは14年前70歳で逝った。もっと聞いとけば良かったな。
祖父ちゃんの母ちゃん、俺の曾祖母は俺が小学生まで存命で言っていた。
「○○は戦争に行く前はおとなしい子だった。帰ってきたら人間が変わっていた。」218 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/06(日) 12:56:17 ID:YMmfpI1p0
>>215>「言う事聞かない中国人をブチ殺した。」
中国の工作員か?w 中国人らしいミスだなw
俺の爺ちゃんも婆ちゃんも、氏ぬまで「シナ人、シナ語」だったよ。
「中国」なんて、爺ちゃん婆ちゃんの口から聞いたことがない。
> どこの部隊に所属していたとかは知らない
ありえない。爺さんの原籍ぐらい、家族なら誰でも知ってるだろ。220 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/06(日) 23:03:05 ID:YaChPulvO
>218いや、俺の爺さんも大陸で戦ってたが、中国と言ってた。多分シナと言っても分からんからじゃないか?
あとぶち殺した下りは似た話を俺も聞いた。
食料を民家から集める時の話だったな222 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/07(月) 02:10:59 ID:jMdTAKMS0
>>220爺さんは北支で戦ってたが、相手を八路軍や国民党軍と言ってたなあ。
「中国軍」とは言ってなかった。まあ「中国軍」なんて存在しないけど。
膨大な住民の海の中で、占領している日本軍なんて米粒のような存在だから
住民を敵に廻さないように苦労したが、終戦後、村長を筆頭に大半の住民が
張学良のシンパで、日本軍の情報が国民党軍に筒抜けだっただけでなく
米軍の中国系兵士が工作員として村人に混じっていた事も判って
「騙された」と悔しがっていた。244 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/09(水) 00:17:57 ID:Hqk0sivm0
母子家庭だった父の友人が大戦末期に特攻隊に志願し亡くなったそうです。
あとから思うと随分と悩んでいたのかふさぎ込んだ様子を見せていたそうですが、
国のために自分は死ぬと。
そのお母様は何かと父を頼り時にかなりのお金を無心したりもしていました。
事情を知らない私たち家族は赤の他人に、とちょっと腹立たしく思っていましたが
父が死ぬ直前にその話を聞き、恥じ入った次第です。父の死後仏壇を整理していたら
おそらくその方のものと思われる寄せ書きのようなものが出てきました。
もっていかないで父に渡したのでしょうかね。
こんな話、おそらく山ほどあるんだと思います。すいません、スレを汚しまして262 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/09(水) 20:58:27 ID:LDoClruk0
小さいころ、祖母(明治後半生まれ)をしたっていて
毎晩お風呂の後は、祖母とお話ししてた
時にはいとこたちと一緒に話をきいた
当時の話
戦後、飼ってた犬を朝鮮人にさらわれたあげく食べられた
戦後、朝鮮人の泥棒、恐喝、などが多発、とにかく怖かった…など
朝鮮人エピソードが多く、すっかり今の私はネット右翼です347 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/17(木) 15:13:35 ID:83p/Lt0Z0
爺ちゃんと婆ちゃんは、マッカーサーに田んぼを取り上げられた話をよくしてたなあ。
もし自分で耕していたら1haだけは取り上げられなかったので、
急遽家族で田んぼやる事になったけど、やったことがないから要領が分からなくて、
元小作人に聞いても誰も助けてくれなくて、仕方なく家業の従業員にやらせたら、元小作人に
農地委員会に密告されて、1haも取り上げられそうになったとか、そういう話。
家族で慣れない米作りして、必死で守った5枚の田んぼも、
この数年で伯父さん伯母さんが相次いで亡くなって、もう完全放置状態。
従兄弟もみんな東京に出てきちゃってるし、どうしようもない。349 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/17(木) 15:29:36 ID:dZIeKyrl0
>>347マッカーサーに返したら?361 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/17(木) 22:46:53 ID:1EvlsaNZ0
西南戦争の時、ひーばあちゃんの家に西郷隆盛が泊まりに来て
お礼にナギナタと鉄砲を一本ずつ置いていったんだって。
この話聞いたときびっくりして、思わずソースきぼんぬって言いそうになった。
ちなみにそのナギナタと鉄砲は、第二次世界大戦の時に兵隊に回収されたんだと。
ハナクソみたいな金属が当時の日本には必要だったんだな。366 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/18(金) 18:25:56 ID:gdb7sxit0
>>361曾婆さまが西郷さんをスケッチしていればもっとすごいよね。
写真なら教科書の肖像画がびみょーに違ったんだろうな376 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/20(日) 22:55:01 ID:10OvOpxs0
戦前までの半島系の方の生活はそれは酷かったそうな。
はっきり言うと今のホームレスのかたがたが集まって暮らしているような状況だったとか。
旧い世代の人に半島差別をする人が多いけどそれもしょうがないんだ、それくらい
彼らは貧しい人たちだった。
と言う話を知り合いの大正生まれのおじいさんが話してた377 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/07/21(月) 14:04:32 ID:un5kyrqa0
俺が子供(4~5歳)頃、明治生まれのばーちゃんが
「日本勝った!日本勝った!ロシア負けた。ロシアの弱いやつ、また負けた」
なんて歌を歌ってたのを思い出した。
ばーちゃんが娘のころ聴いた日露戦争の歌か?382 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/24(木) 20:15:25 ID:ODp3nOcT0
>>377ウチのばーちゃん(1901年富山県生まれ)も、歌っていましたよ。
日露戦後後の1905年~1906年にかけて、大ブレークしたのかも?394 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/07/25(金) 21:56:47 ID:gkb9qrB10
しりとり歌にこんなのがあったぞ
陸軍の 乃木さんが 凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国 クロパトキン きんたま マカロフ ふんどし しめた 高シャッポ ぼんやり (最初に戻る)431 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/08/03(日) 02:12:52 ID:J3MkAqrL0
大叔父は若いときに招集されて、中国大陸で戦闘に明け暮れた。
敗戦後、復員し、思い出したように当時のことを話した。
そのひとつ:
功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
そこはよくしたもので、たいていどこの部隊本部にもベテランの事務担当がいて、
てなれたやりかたで、「名誉の戦死」 にしたてて、内地へ報告した。
「どこそこの部隊で上官が戦死」 といううわさは、展開する各地の部隊にただちに伝わり、
「さては、やられたな」 と兵士同士でささやきあうものだった。
軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
日中戦争の戦史で 「一部隊全滅(玉砕)」 という事例が少ないのはこういう事情による。432 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/08/03(日) 03:26:38 ID:4YuBHNCK0
大正生まれの祖母は生粋の沖縄人なんだが、いいとこの娘だったらしく
戦争前に京都へ家族で非難し沖縄戦の経験はないらしい
日本は負ける・沖縄地上戦の情報は知ってる人は知っていたみたいで
事前に逃げた人が大勢いるってことを大人になってから知り
何も知らずに死んでいった方たちの無念さを思うと苦しい437 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/04(月) 22:22:23 ID:YccsTc6FO
憲兵が来ると、やたらと食料品を持っていくので、
子供に食べさせるお菓子だけは洋服ダンスにしまっていたと
祖母から聞いた。
とにかく憲兵が嫌いだったらしい。
でも軍歌とかはバンバン歌ってた。438 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 13:44:29 ID:HH+rV9fd0
徴兵され、陸軍二等兵としてスマトラ島(インドネシア)へ送られた祖父の話。
田舎の一本道を輸送車両で走っていると、荷物をたくさん背負ったお爺さんが歩いていた。
上官から「原住民とは仲良くやれ」と言われていたので、
そのお爺さんと荷物を軍用トラックで、途中まで送ってやったという。
数日後、同じ道を走っていると、例のお爺さんが道端の木陰に座り込んでいる。
運転席に祖父の顔を見つけると、ニコニコ笑いながら近づいてくる。
(また、乗せてくれか。今日は軍事物資積んでいるし、他の兵士も同乗しているからなぁ・・・)
と困惑していると、何十本ものバナナの山を差し出した。
言葉は何を言っているのかわからないけど、「先日の礼だ、受け取ってくれ」ということらしい。
バナナを荷台の隅へ積むと、お爺さんは、満足げに村の方へ戻って行った。
いつ来るとも知れぬ祖父が通りかかるのを、毎日道端で待ち続けていたということだ。
長文、スマソ
439 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 18:21:19 ID:cJZGBp9G0
ええ話や441 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/05(火) 20:08:27 ID:XlEMghG80
旦那のばあちゃんに聞いた話。
子供の時関東大震災を横浜で体験したそうですが、
大人たちが竹やりを持って井戸の周りを警護してたそうです。
朝鮮人に毒を入れられるという噂があったから。
教科書で読んだ震災時のデマ騒ぎって本当だったんだと実感。490 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/20(水) 02:07:33 ID:pD5xHnsd0
ウチの爺さんは雪風に搭乗してたが、観光気分で戦場に行って観光気分で復員した
稀代のポジティブ軍人だったみたい。
そこに酒があれば同期の士官、下士官、一兵卒を集め同期の桜を歌って盛り上げてたらしい。493 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/21(木) 21:45:59 ID:ui89i4cPO
雪風って戦艦大和の沖縄水上特攻作戦にも参加して、ほぼ無傷で帰還して…戦後連合国から表彰されたというあの雪風ですか!
昔プラモデル作ったですよ… スゲエなあ‥。550 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/08/30(土) 18:21:29 ID:P7dR2X/g0
うちの祖父が戦争で南方に行ってた時の話。
そこでは戦況も厳しくなく、食事もおはぎやバラ寿司なんかが出て
甘い果物のおやつもあるし、気候は温暖だし(祖父は冷え性だった)
食料の乏しくなっていた国許よりよっぽど過ごしやすかったそうだ。
戦後も地元の人たちは「ニッポンジンはトモダチ」と言って
鶏を分けてくれたり、封鎖されてる橋を渡らせてくれたり
なにかと日本兵に親切にしてくれたらしい。
もう亡くなったけど、ボケてからは1日中その南方での話ばかりして
家族みんなウンザリしてたからあんまりちゃんと聞いてなかった。
今、歴史に興味を持つようになって、爺ちゃんの話もっとちゃんと聞いていればよかったなと思う。591 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/07(日) 01:58:48 ID:uunwshI3O
俺の爺さん、大学時代に警察に捕まって一週間位放り込まれてたな
理由は同期にアカの疑いがあり、親しくしてたので巻き添えくった。無実は証明されたけど本当不安だったと言ってた
その後、満州国の今で言う国1に受かったけど、卒業半年繰り上げで戦争行って、帰ってきたら満州国無くなっててパー
日本の公務員でなんとかならないか掛け合ったけど駄目だった
当時は満州へ満州への時代で、結構仕事先として人気があったらしい
594 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/07(日) 17:18:46 ID:1EVH2cRN0
祖父は大正三年生まれで徴兵の時は山砲に配属され満州に駐屯していた。
太平洋戦争では国鉄から技師として派遣されてビルマ、シンガボール、クアラルンプルに行った。
特にビルマに長くいたが国鉄の技師なんだから戦場にかける橋で知られるタイメン鉄道の建設に関わっていると思う。
敵機に追われて逃げたり、小象に追われて川を泳いで逃げたこともあったと俺が子供の頃に聞いた。653 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/12(金) 15:05:27 ID:MTHNe00T0
うちの曾爺さんは第一次大戦時の鉄鋼特需にうまく乗って巨大鉄工所の経営者に成り上がった所謂「成金」で
戦前は某国鉄駅の周囲はほとんどうちの土地だったという。
爺さんは5人兄弟の末っ子だが家業につくのが嫌で若いうちから軍隊に入って台湾に行ってた。
鉄工所は爺さんの兄貴が継ぐ予定だったのだが次から次に兵隊に取られて前線に送られて戦死。
早いうちから台湾に行ってたうちの爺さんだけが生き残ってしまい、鉄工所を継ぐことになるが
やはり経営は向いてなかったようで戦後の混乱期にあっさり潰してしまい、当時発足したばかりの自衛隊に入ることにする。
それまで「お坊ちゃま」として育てられた俺の伯父は没落でひねくれてしまい爺さんへの反抗なのか、学生運動に身を投じる。
という歴史の全貌を知ったのは爺さんが死んだときだった。
平凡な家と思っていた自分の一族にこんなドラマがあったと知って吃驚した。
爺さんが台湾にいたときの奥さんと子供と孫(おれの従兄弟)が出てきたときにはさらに吃驚した。754 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/21(日) 19:14:06 ID:xO/M9hWn0
ネガティブな昔のことは語りたがらないうちの婆ちゃんが唯一語ってくれたこと
消防のときサヨ教師から洗脳授業を受けて「農民は虐げられていた」見たいな事を話してたら
「百姓ほど賎しい人種はいない」と祖母にしては珍しくきつい事を言い出した
話を聞いてみると戦時中疎開していたときのことを話してくれた
世話をする女中1人だけ連れていったらしいんだけど、周りの百姓が足元を見て米を譲らない
挙句には持参した着物や空襲から避難させる為に持ち込んだ掛け軸や茶碗等の骨董品を全て取り上げられた
毎晩女中さんと2人で抱き合って泣き、そのときの悔しさは忘れたことがないと言っていた
その女中さんの孫娘が家のお手伝いさんを住み込みでしていたのは、同じつらい目にあった者同士だから
とも言ってた。家からお嫁に行ったので相当思い入れもあったのは本当らしい
よく考えてみれば「落ち武者狩り」とか嫌らしい事をアルバイト感覚でするのは農民だったよね755 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/21(日) 19:54:34 ID:qNQ2cbpA0
>>754極端から極端に思考が走る人だなあ。
金持ちにも貧乏人にもいい奴もいるし悪い奴もいるってのが世の中さ。
お祖母さんには同情するけど。756 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/21(日) 20:17:51 ID:ghEdx/H30
要するに戦争前は金に任せてぶいぶい(死語)言わせてたのが
戦争で羽振りが悪くなったら百姓ごときに足元見られちまってくやしい~って話でしょ。
戦争前は金持ちやろうが威張りくさってて百姓が悔しい思いしてたんだからお合い子じゃねえの?778 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/09/26(金) 14:10:58 ID:YuAohCOS0
祖母から聞いた話
仕事を求めて日本にやって来た朝鮮人を下男として使ってたんだけど
まじめに仕事をする日本人と違って、すぐサボったり妙に卑屈な態度を取ったりして評判が良くなかった
ある時曽祖父の時計を盗もうとしてすぐ捕まり警察に突き出そうとしたが
地面に這いつくばって泣き出し許しを請うので、ついそのまま家に置いてしまった
戦争になり、書生さんや若い日本人の使用人は次々出征してしまい
使用人の男性は昔からいるおじいさんとその朝鮮人だけになった
日本の敗戦が決まり騒然とする中、その朝鮮人は家の中を物色し金目の物を盗んで逃げた
「昔盗みをしたとき叱り付けられたことを根に持っていたいたようだ」と
朝鮮人の犯行を止めようとして殴られ怪我をした、使用人のおじいさんが言っていたそうだ842 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/10/22(水) 06:51:38 ID:juXV2UZmO
流れ豊かな黒龍江の岸の茂みが我が住みか 水を鏡に髭面剃れば満州娘も一目惚れ。この「流沙の護り」がじいちゃんの愛唱歌だったなぁ あと北国の春。爺ちゃんは三度兵隊に行き部隊名も書き残しているのでいつかゆっくり調べたいと思う。
ちなみにじいちゃんな弟は蒼龍に乗ってミッドウェーに出撃し戦死している。
艦爆乗りだったとか…
戦後生まれた三男に爺ちゃんは同じ名前をつけた (;_;)
847 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/10/23(木) 03:43:57 ID:D5aO7ZF8O
シベリヤに抑留されていた、じいちゃんの話。
シベリヤでは年配の人は体力的に持たず、逆にあまり若いと精神的に持たなかったとのこと(祖父は当事三十前後)
だれかが亡くなるとお供えものをしていたがあくる朝には必ず失くなっていた。
日本人にくらべてドイツ人のほうがひどい目に遭っていた。
じいちゃんも一度高熱をだして死にかけたが、死ぬかもしれないが飲んでみるかと謎の薬?を人からもらい命を取り留めた。
鉄道作業の帰り道端に芋が落ちていたので大喜びで持ち帰り煮てみると、馬か何かのフンだった。
蒙古の兵隊はすぐに何かくれとうるさかった。
もっと色々聞いて書き留めておけばよかったなぁ848 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 15:31:36 ID:jtAV5wNi0
>>847>死ぬかもしれないが飲んでみるかと謎の薬?を人からもらい命を取り留めた。
これすごく気になる852 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/10/24(金) 03:50:53 ID:V40V81VHO
>>848 そうですね。俺もすごく気になるんだけど 今となっては聞くことができない。ただ、じいちゃんもよくわかってはいなかったのは確か(笑)でもかなり劇的に治ったらしい。
それ以後は命の恩人とゆうことで何かと、そのくれた人を立ててあげたんだって
もし、じいちゃんがその時に、力尽きていたら俺も生まれていなかった訳だから俺もその人に感謝!
追加
武装解除の前にじいちゃんはソ連機に襲われ足を負傷した。ソ連機は旋回してまた襲ってきたので近くに生えていた白樺の木に隠れて難を逃れた。
この白樺の木にも感謝!
ちなみにソ満国境の孫ゴというところにいたみたい850 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/10/23(木) 23:12:43 ID:Up7kIsFMO
ばあさんの故郷四国の小都市でも軍港があったからよく空襲に遭ったらしい。
普段厳格なばあさんの父親も焦って枕を持ち出して逃げだそうとしたそうな。焼夷弾が屋根を壊すバリバリバリって音が今でも耳に残るとかそんなことをよく話してくれます851 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/10/24(金) 02:32:35 ID:vmgyjB8U0
内地の話は悲惨ですな…
祖母は結婚とともに満州に渡って、戦後はシベリアから祖父が帰ってくるまで
祖父の実家の農家で数年暮した。話を聞いて印象に残ったのは
・百姓は凄い量の飯を食べること。
私は「農民は貧しい」って思ってたが肉体労働なんだから当たり前かな
・戦後すぐまで夜這いがあったこと。
歴史上の有名人との接触は、山本五十六の奥さんが祖母の実家の近所に住んでいた。
三橋牛乳屋の娘で祖母いわく美形一家だった。853 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/10/24(金) 04:08:12 ID:Y+7Jb+ilO
俺の祖父は青島の部隊に配属されてたらしいが、戦時中にも関わらず食い切れない程大量の食事が出ていたらしい。
前線や内地とは偉い違い。
909 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/12/17(水) 18:05:13 ID:MpHrW/LB0
曾ばあ様は5歳のとき、近藤勇に頭をなでられたそうだ。口のでっかい男だった
そうで、怖かったと語ってたそうな。950 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2009/04/09(木) 17:04:56 ID:s7A6bDfjO
>>909ひいばあちゃんが親(自分の曾祖母)から聞いた話。
近藤勇は女子の間でモテていたらしい。
どこまでモテモテだったから分からないけど
彼に会ったり座敷で相手した女性は羨ましがられていた。
京都の三本木というところで過ごした頃の話。951 名前:
名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2009/04/09(木) 23:02:23 ID:IKCN6ieF0
幕末は飲み屋が面倒だったらしい。酒の上での喧嘩は今でも多いけど
それが侍だとすぐに斬り合いになるので店の被害も大きかったと。
片付けしてると指が落ちてたり耳とかほほが転がったりしてたそうな。
ばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんの話
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